白髪頭でも若葉マークの金剛峰寺境内案内人のページ
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奥の院参道ご案内 |
弘法大師御廟の浄域への入り口に当たるので一の橋といいます。正式には「大渡橋」。 参詣人をここまで大師が送り迎えをするという伝承があります。お参りする人はここで 礼拝して渡ります。
一の橋から御廟までの1.9Km。その中ほどに三途の川があって、架かる橋が「中の橋」。さらに御廟の手前には仏の浄土へ行く無明の橋とも呼ばれる御廟橋があります。難波から高野山の南海高野線の終点は極楽橋といいます。
奥の院参道には樹齢何百年の老杉が鬱蒼と茂り、 そびえ、深厳さをたたええています。黄泉の国に迷い込んだのかと思うほど、言葉にできない不思議な気持ちになってしまいます。ここには20万基を超える供養塔が並んでいます。
敵味方に別れ戦った源平合戦の武者が隣同士に祀られ、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、石田光成、 徳川家康ら多くの戦国武将も共にこの地に祀られています。
ちなみに250の大名のうち110の藩主が供養塔を建てています。
高野山は日本第一の死者供養の霊場であり、宗派を超えた総菩提所。同行二人の弘法大師とともにあります。大師信仰の中心聖地、奥の院御廟へご案内しましょう。 |
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一の橋 |
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奥の院 供養塔 その(1)
熊谷直実と平敦盛 |
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平敦盛は平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、 平氏側はなだれを打って退却。義経のひよどりごえの奇襲で有名な戦い。騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、恩賞に預かれる名だたる敵将を探し ていた熊谷次郎直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」 ・・・上品な言葉で戦ったんですね。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうとしたが、 我が子の直家と同じ年頃のイケメンを見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、 名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、 直実は涙ながらに敦盛の首を切った。
織田信長が桶狭間の戦いを前に、また、燃える本能寺で舞った「敦盛」 『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を 享け滅せぬもののあるべきか』の一節でおなじみですね。
当時の寿命50年は下天(あの世)の世界では1日なんだそうです。無常観が漂います。いくの流れは絶えずして・・・の「無常」 ああ無情でなく、無常です。 |
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熊谷直実と平敦盛の供養塔 |
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話は、ちょっと横道に、戦国時代後半までは敵の首を掻ききって 己の手柄を見せる。つまりライバル会社の部課長、取締役の首を上司に披露して ボーナスをもらったということなりますね。敵将の首を奥様が小川で綺麗に洗って化粧をして夫の手伝いをしていたのです。精神が麻痺しますわね。 |
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明智光秀の供養塔
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敵は「本能寺にあり」で、あまりにも有名なお方。主君の織田信長を本能寺で倒します。天下を取るための手立てをしないまま、いわば恨みを晴らすような行動。三日天下というよりも、殺人事件が多発する今の日本の世相のよう。確信犯ではあるのだろうけれど、追い込まれてネズミが猫を噛んだ事件、破滅に突き進んだ衝動的な・・・いやいや、室町将軍を再興して秩序づけることこそが我が使命と思ったのか。日本史の大きな事件ではあります。
ただ、供養塔は何度作り変えても石がわれるのだそうです。 |
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明智光秀供養塔
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井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ) |
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