高野山町石道と町石・・・・パンフレッットや書籍などから | 高野山町石卒塔婆の由来 | ||||||
高野山町石道 弘仁7年(816)弘法大師が真言密教の根本道場として開創された高野山。開創以来、厳しい修行の場である高野山は、平安期以後、大師入定信仰・高野浄土信仰が広まり、納骨・参拝が盛んになりました。高野山へは古来、高野七口と称して、七つの街道を経て登山しました。そのなかでも高野街道西口の町石道は、表参道として大師をはじめ天皇や貴族、庶民が利用した道です。九度山の慈尊院から高野山奥の院御廟まで約24Kmの道のりには、1町(約109m)おきに町石(慈尊院〜伽藍180本、伽藍〜御廟36本)、36町ごとに理石(4本)が立ち並んでいます。 1大 門 口 矢立からの町石道。大門に続く道。 2不動坂口 学文路方面道を集約した道。 その他 3黒河口 4龍神口 5相の浦口 6大滝口 7大峰口 |
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町石の形体・石材・建立方法 町石卒塔婆の形体は、弘安8年(1285)高野山町石卒塔婆供養願文に、高さ一丈一尺(約3.33m)広さ(幅)1尺余(30cm余)とあります。実際は総高3m弱。形状は一石彫成の五輪塔で、地輪を方柱状に長く造り、上から空・風・火・水・地の宇宙五原素を表徴しています。 石材は、奥の院33町石を除いてすべてが火成岩系の花崗岩、いわゆる御影石といわれているもので、白い部分に黒い点が散在しています。 町石の建立方法は、まず道を造り、1m位の穴を掘り、すべてではありませんが、経文が書写された礫石を入れ、その上に直径40cm余りの台石を敷いて固定させてから町石を載せたものと思われます。 |
町石の施主 町石卒塔婆の施主は後嵯峨上皇(太上天皇と彫られている:2.3.4.36町石))をはじめ鎌倉幕府の執権以下要人、地方の武将豪族、著名な僧侶など、当時の錚々たる人物。このように施主の多くが当時の有力者であったのは、安達泰盛が自己の血族縁者はもちろん執権以下幕閣の要人に働きかけて完成したとみるべきでしょう。 そのほか、わずか五基ですが十方施主、十方檀那とあるだけの無名の町石も見逃すことはできません。この無名の町石は高野聖の唱導勧進に応じて浄財を喜捨した多くの庶民の大師信仰が凝集されたものと思われます。 *太上天皇とは皇位を後継者に譲った天皇に送られる尊号。上皇と略することが多い。 |
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町石のはじまり 「寛治2年、白河上皇高野御幸記」によると寛治2年(1088)に木造町卒塔婆が、すでに山上36町、山下180町の道のりに建てられていたことがわかります。その後、文永2年(1265)3月に高野山遍照光院の覚きょう上人が石造の卒塔婆の建立を発願。この発願に応じたのは後嵯峨上皇をはじめ鎌倉幕府の執権北条村政・時宗や安達泰盛らでした。なかでも安達泰盛は、貴族・幕府要人に町石建立の勧進に当たるなど、もっとも力を尽くした人物です。これらの人々によって200余基の町石は、発願後20年の時を経て、弘安8年(1285)に完成しました。 町石は高野山登山の道標であるとともに、太上天皇(後嵯峨上皇)の宝祚の長延、将軍はじめ十方施主の二世快楽を祈願するものです。また、天治元年鳥羽上皇「高野御幸記」にも述べられているように、町石は、金剛界三七尊と胎蔵界百八十尊をあらわしたものです。よって、それ自体が信仰の対象で、人々は一町ごとに手を合わせて登山しました。唯一の表参道であった町石道は、まさに祈りの道、信仰の道ということができるでしょう。町石は、完成後700年間に数度の補修で50基ほどが再建された以外は、創建当時のままで立っており、昭和52年7月には国の史跡に指定されました。 |
鳥羽法皇、天野より奥の院まで |
高野山参詣・・(紀国名所図絵) |
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町石・里石の銘文 町石卒塔婆の正面に「空・風・火・水・地」の梵字を小さく入れ、地輪の上部には金剛界三十七尊と胎蔵界百八十尊を表す梵字を薬研彫の手法を用いて大きく彫り、その下に町数を刻んでいます。一般的に正面左、右に各々施主等の名前と願文を入れています。 また36町ごとに立っている里石については、大日如来法身真言と里数を刻んでいます。町石の銘字筆者は、梵字は小川信範(小河真範)でまちがいないと思われ、また、漢字にちては説が多いが、世尊寺経朝説が有力です。 弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念として南海電気鉄道株式会社から出版された「高野山町石道」から転載いたしました。 昭和55年3月 南海電気鉄道株式会社 また、高野山町石の研究 愛甲昇寛氏の著作を参考にしています。 |
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二月騒動と百五十八町石 鎌倉幕府八代執権・北条時宗に三歳ちがいの異母兄・北条時輔がおりました。父は五代執権・北条時頼でした。時宗は、御恩奉行・安達泰盛の娘を正室にしていました。 建長八年(1255)京都の六波羅守護(探題)北方に北条時茂が、南方には文永元年(1264)時輔が任ぜられ、朝廷と西国の監視役を務めていました。当時は北方から執権・連署の候補者を決める慣習でした。 その頃、名越氏一族の北条光時が弟の時章・教時らと共に将軍頼経と結んで、得宗(家督)の執権時頼に反逆を企てました。時章の子公時も、これに同調しました。この陰謀は露顕し、光時はかろうじて助命されて伊豆へ流されました。幸い時章・教時は咎めを免れましたが、時頼が亡くなったとき時章は出家しました。 (寛元四年、1246) ところが、時頼の寛大な心で許された教時は、なおも野心を持ち続けていました。教時は、六波羅探題南方の時輔がその地位と処遇に不満を持っていることを知ると、これを巧みに抱き込んで執権時宗に再び謀反を企みました。 この情況をいち早く探知した時宗は、文永九年(1272)二月十一日、鎌倉名越の北条時章(入道見西)・教時の館を、大蔵寄季が率いる討手に急襲させました。たちまち教時は誅殺され、あわれにも謀反に加担しなかった時章も大混乱の中であやまって殺されました。一門の長老を殺害した責任を問われて、大蔵頼季は処刑されました。 時をおかず、幕府は早馬を六波羅北方の役所へ遣わし時宗の命令を伝えました。直ちに二月十五日、新守護の北条義宗は多数の軍兵をもって、六波羅南方の時輔の邸を奇襲しました。不意を突かれた時輔方は必死に防戦しましたが、勝運むなしくついに無残な最期となりました。時輔は二十五歳でした。 父時頼の愛子であった時輔と時宗のあまりにも悲しい運命…二月騒動でありました。時宗の義父安達泰盛は、鎌倉と京都で亡くなった御家人郎党の菩提を弔うために、施主となって百五十八町石と百五十九町石の供養塔を建立しました。未曾有の国難だった蒙古襲来「文永の役」は、これより二年後の文永十一年(1274)十月でした。 |
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登場人物をちょっと整理しましょう。 北条時宗 鎌倉幕府8代執権。建長3年(1251年)、5代執権時頼の嫡男。時頼が没した翌年、14歳で副執権である連署に就く。文永5年(1268年)蒙古の国書が日本にもたらられると執権に就任し、文永、弘安の役・蒙古襲来に対抗する。後34歳の若さでその生涯を閉じる。 山下10町石に時宗の名がある。「十町相模守平臣時宗」 北条時輔 時宗の3歳年長の兄。宝治2年(1248年)、5代執権時頼と側室の讃岐局のあいだに生まれる。時頼の死後、時宗が連署に就任すると六波羅探題に任ぜられ、京に赴く。やがて、蒙古問題をめぐり時宗と考え方を異にし、反幕府勢力を含めた対立が生じました。 時輔らの追善供養に上の158町石・159町石の銘文。 北条宗政 時宗の同母弟。時宗を常に脇で助ける役目をおっていた。時宗と対立する異母兄の時輔に対しては特に敵意を抱いていた。弘安の役の時にには執権時宗を助けて活躍するがその年に没する。41町石、42町石に宗政の名が見える。「四十一町左近将監平臣宗政」 安達泰盛 安達義景の3男として誕生。建長5年(1253年)6月に義景が死去し、泰盛は23歳で家督を継いで秋田城介に任ずる。同時に評定衆となって執権時頼を補佐した。異母妹(覚山尼)を猶子として養育し、弘長元年(1261年)に時宗に嫁がせて北条得宗家との関係を強固なものとした。弘長3年(1263年)に時頼が没すると、泰盛は時宗が成人するまでの中継ぎとして執権となった北条政村や北条実時と共に得宗時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となる。高野山町石建立の指揮を執る。 御恩奉行ゆえに勧進、つまり寄付集めに適任だったのかも。 |
霜月騒動 文永二年(1265)高野山遍照公院住職の覚きょうが、石造の卒塔婆(町石)建立を発願し、朝廷と鎌倉幕府に懇請しました。幕府の重鎮・御恩奉行の安達泰盛はこれを受けて、初代将軍源頼朝と政子の菩提所高野山の興隆と欣求浄土を説いて全国に願文を宣布しました。 このころ、蒙古襲来による文永の役(1274)弘安の役(1284)という大国難のなか、泰盛は外敵退散の戦備増強に御家人を動員するとともに、町石建立事業も推進しました。 弘安八年(1286)十月二十一日、石造卒塔婆の落慶法要会が行われました。このとき、覚きょうは敬白分を朗読しましたが、勧進した泰盛の言葉は記録として全く残っていません。 そのころ鎌倉幕府では、泰盛の孫にあたる北条貞時が九代執権でした。そして、外祖父として権勢さかんな安達氏一族と、御内人・内管領などと呼ばれた得宗(家督)の家司平頼綱との確執が続いて、不穏な気配がありました。 とりわけ、泰盛の嫡男左衛門尉宗景は得意のあまり、日常の武芸・狩り・船遊びにも禁忌や掟を無視してその傍若無人ぶりは、悪いうわさとなって広まっていました。 平頼綱は、自分の守り育てた貞時にこのことを折に触れて告げ口していました。貞時はその都度、自分はまだ若いので執権として軽視されているのではないか、宗景の増長驕慢は執権を侮蔑しているのではないかと思うようになりました。くり返されるざん言に貞時もしだいに心が動かされていました。 やがて宗景は「わが家は源氏である」と言い出しました。理由は様々に伝えられていますが、「曾祖父景盛と頼朝は義兄弟である」「景盛は実は頼朝の落胤である」と言い立てたという説もあります。 これは重大事。安達氏が源氏を名乗れば、北条氏はその下につかなければなりません。ついに北条貞時は宗景を許せないと感じました。 弘安八年十一月十七日、戦が始まりました。戦況不利な安達氏一門はしだいに討たれ、泰盛・宗景らは誅殺されました。泰盛五十五歳でした。この争いが十一月に起こったので、霜月騒動と言われています。 |
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一般庶民寄進の十方施主、十方旦那と彫られている石塔が 見えるが、朝廷、鎌倉幕府、僧侶の造立が圧倒的に多い。 |
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