武蔵坊弁慶 と闘鶏神社
世界遺産に指定された闘鶏神社は、源平の戦いの時に熊野水軍が源氏と平家のどちらにつくかを「闘鶏」によって決めたのが由来とされています。
闘鶏神社
創建されたのは419年と言われている神社で、11世紀後期には熊野三所権現を勧請し、熊野参詣の折に参拝して心願成就を祈願したと言われています。
社殿は熊野本宮大社が大斎原 にあった時と同じ配置をしており、熊野信仰の歴史を今に伝える貴重な場所です。
2016年の10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録をされています。闘鶏神社の由来
平安時代の末期、源平の戦いの中で弁慶の父とされる、熊野水軍を率いていた熊野別当・
湛増 がどちらに味方をするのか決める時に、御神前で鶏を闘わせて神意を占った事(鶏合神事)が社名の由来と言われています。そのためこの神社には「勝運導き」のご利益があると言われています。
また湛増に援軍を求めるために源氏側の使者として現れたのが源義経に仕えていた弁慶だったとも言われています。藤巖 神社闘鶏神社の境内には、現在の田辺の木を祖作った安藤直次公をお祀りする藤巖神社があります。安藤直次とは、徳川家康に幼少期から近待し、のちに家康の側近として幕政に参画した人物です。
慶長十五年(1610年)には家康の第十子「徳川頼宜」の傳役 (跡継ぎを育てる役目)となり、元和五年(1619年)に頼宜が紀伊に移ると、紀州徳川家附家老として田辺3万8800石を治めました。
直次は屋敷城(のちの錦水城)の築城と城下町の整備を進め、商業や文化面に力を注いだと言われており、明治に至るまで安藤氏の城下町として発展していきました。弁慶社
紀州田辺と言えば「武蔵坊弁慶」。出生地については諸説ありますが、もっとも有力な説として、熊野三山の別当・湛増の子と言われています。田辺市内には誕生にまつわる産湯の井戸、産湯の釜、腰掛石など数多くの遺跡や遺物が残されています。
武蔵坊弁慶と言えば、源義経に生涯一家臣として幾多の危機、苦難からすくい、奥州衣川で義経を守り壮烈な立往生を遂げたと言われています。この弁慶社は弁慶松と呼ばれる地元の方がその生涯を讃えて植えた松の根方にあったお社です。弁慶松は五代目まで片町の一角に植えられておりましたが、昭和五十年に枯死し、六代目は田辺市庁舎前に植え継がれています。五代目弁慶松の伐採以降に有志の手で三十年に渡り守り継がれていましたが、闘鶏神社の一角に新たに弁慶社として建立されました。