鎌倉将軍にならなかった貞暁のお話

丹生都比売神社と北条政子のお話です。

源頼朝と妻の政子が夫唱婦随で鎌倉幕府を開きました。「いいくにつくろう」と覚えましたよね、1192年です。
今年は2011年だから800年前の昔です。

さて、頼朝が鎌倉幕府を開いて7年後には馬から落ちて落馬して死んでしまいます。
二代目将軍は長男の頼家。この長男はまったくダメ将軍で、追放され、さらに暗殺されてしまいます。

  「若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外されたの母方北条氏を中心として
  十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられた。合議制成立の3年後に頼家が重病に陥ると、頼家の後ろ盾である

   比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡する。頼家は将軍職を剥奪され、
  伊豆修善寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。」


三代目将軍は次男の実朝。まだ幼くて母の政子が将軍職を代理しました。



           源頼朝
頼家、実朝は当時の習慣で乳母に育てられていました。乳母は有力な家臣の関係者です。
長じて、実の母の政子の言うことなど聞くはずもありません。どろどろの権力闘争が生まれるもととなっています。

当時は一夫多妻制で、頼朝もご多分にもれず外に貞暁(ていぎょう・じょうぎょう)という子をもうけていました。

   「貞暁は頼朝と大進局(だいしんのつぼね)のあいだに生まれた。大進局は常陸入道念西(常陸介藤原時長)の娘」

 政子は「夫を奪ったにっくき女、子供ともども殺してしまえ」と家来に探索を命じていました。

貞暁・母子は政子から逃げるために京都へ、貞暁は生後すぐに仁和寺に預けられ、さらに、高野山に逃れ、
行勝上人の元で修行に励んでいました。
 「オン アボカベイ ロシャノウマクサンダー オン マカボダラ ハンドマジンバラ ハラバリタヤ ウーン ・・・  南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛・・・・」
 そんななか
  1218年 政子は夫、頼朝の供養のために弟の北条時房を従え、念願の熊野詣を行い、帰りに目障りな貞暁の住む高野山へと向かいました
  将軍職に就く事のできる唯一の源氏嫡流となる貞暁の意思の確認が目的でした。
  
高野山は女人禁制。尼将軍でも高野山に登ることがかないません。山麓の天野で会見するすることとしました。
貞暁には行勝上人がつきそっていました。当時の天野・丹生都比売神社境内には高野山の寺院など堂塔が建てられていました。

政子は「貞暁さん、初めてお会いしますね。お元気そうでなによりです。行勝上人様にはお世話をいただいて大変感謝しています。」

 尼将軍の会いに来た本当の目的がわからない貞暁は「遠い所をお越しいただきありがとうございます。母上さまのご壮健をと鎌倉幕府の進展をお慶び申し上げます」と、一通りの挨拶を述べ、政子の言葉を待った。

政子は、朝廷と幕府の関係や鎌倉幕府がまだ不安定であることを話した後、「亡き頼朝とは新しいし時代は武士による政権だと確信して鎌倉幕府を作り上げました。しかい、今。話したとおり源氏による政権を続けられるのは貞暁殿、あなたの心一つにかかっています。」

貞暁は「仏の道に精進しています。世俗の欲は全くありません」と。

「貞暁殿、あなたは鎌倉幕府源氏の直系です。知ってのとおり、将軍職は源氏でなくてはなれません。あなたは還俗して武士になる気持ちはありませんか。」

源氏と北条氏が政権を競っている。政子の目的を悟った貞暁は父・頼朝から授けられた短刀を懐から取り出し、鞘を抜きはらい左目に突き刺し、目を抉り出し左の手のひらに置きました。

「これこのとおり、私には武士になる気持ちはありません。仏の道に精進して衆上の幸せを願います。」
貞暁の豪胆さは武士の将にふさわしい器量の持ち主であることの示すものですが、この行為によって貞暁は命を救われます。



        北条政子と貞暁の対面
政子の貞暁に対する態度は一変します。この後、政子は高野山、丹生都比売神社に支援することとなったのです。
丹生都比売神社には政子が寄進した重要文化財の金銅琵琶が伝わっています

貞暁と面会したのが1218年、その翌年の1219年に実朝は鶴岡八幡宮で頼家の子の公暁に暗殺された。これにより源氏将軍は断絶。

政子の北条氏が名実とも幕府の実権を握るに至ったのです。

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