黒塀・江戸風情のスタイルで渋墨塗りを再現 |
江戸の町を スミ〜墨〜 と言いながら 流していたのでしょうか |
どこか昔懐かしい、時代劇に出てきそうな |
近世風俗史の基本文献とされる『守貞謾稿』(もりさだまんこう)に書かれている渋墨屋さん | ||
墨渋屋 これは専ら得意の家の求めに応ず。あるひは巡りてこれを問うもあり。 桶二つに納れ担ひ、また小桶一つと刷毛と携えへ来て、板塀、および塀の腰板、 また板庇(ひさし)等を塗る。 夏月は速かに乾き渋気去らざるをもって、専らこれを塗る。 また武家は冬を専らとす。新正を飾る故なり。 また火後、新宅の処を巡り問ふ。価は坪数を計りてす。 焼き家の外面は、壁表へ下見板と云ふをもつてこれを包むこと図のごとし。 下見板、素あるひは墨渋ぬりにす。 (焼き家の説明) 土蔵造り、および塗家にあらざるものを号し(名づけ)て焼家と云ふなり。 火災には必ず焼失す故なり。京阪にはこの名目なし。 (下見板の説明) 下見板 したみいたと訓ず。・・・・おしふちをさゝらのごとく(右図) この形に きりかくるなり。 下見もさゝらこも、下より上へ板をかさねかけて(右図) かくのごとく板は かさね掛くれども、押ぶちに切れ目なく、ただ板を細く割きてこれを押すのみ。 |
下見板 |
横に張られた板、下見板というそうです。 板が重なり合って鎧のような作りですね。 |
右の絵のような姿勢をとってみました。 |
『塵塚談』(ちりつかばなし)にでてくる渋墨屋 | |
渋墨塗りのこと 渋墨塗りのこと、荷担桶(かつぎおけ)に渋を入れ、灰炭を合わせ、 かつぎ歩行き、板塀、したみなどを、一坪に附き何分と価を定めぬる ことなり、安永、天明の頃までは江戸中に十七人ありけるよし、 近頃は三四百人にもなりしよしなり。 『塵塚談』の作者は小川顕道。小石川養生所に勤める医師。 小石川養生所は享保の改革で設けられた幕府直営の病院でした。 |
時は文政文化の華やかな頃。江戸市中には300人とも400人 ともいわれる渋墨塗り職人が渋墨の入った桶を天秤棒で担ぎ歩 いていました。 特に新年を迎える師走の頃には正月準備で忙しかったようです。 |
きれいに完成しました。 | |||
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