T 渋塗り、渋墨塗り衰退の歴史
渋墨塗りは幕末まで武家屋敷、商家、町屋など広く一般的に使われていました。日本の伝統的な塗装技術でした。
ところで、恐竜がある時期に突然姿を消した事件がありました。それは巨大隕石の落下による気候変動だと最近認定されたようです。同じように、柿渋による渋塗り、渋墨塗りが忽然と消えてなくなってしまう出来事がありました。
それは明治維新のようです。「わが国で初めてペンキ塗装を行った
のは、江戸の渋塗り職人町田辰五郎で、安政元年アメリカ使節浦賀来航の際、通商交渉をする応接所建物外部のペンキ塗装が命じられた」(事物起源辞典)とあります。
明治新政府の欧化政策は、日本の文物・制度・風俗・習慣を否定。日本をヨーロッパ風にして欧米諸国に日本の近代化を認めてもらおうとして採った政策、それは鹿鳴館に象徴されます。 こうして、
渋墨塗りも消滅してしまったのだろうと推測されます。現在、復刻や残されているものでは、箱根の関所、角館の武家屋敷、熊本城、松本城、松江城、再現された五稜郭の箱館奉行所があります。 |
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♪粋な黒塀 見越しの松に・♪
・・「お富さん」の歌詞でおなじみ |
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五稜郭の箱館奉行所が復元されました平成22年7月。下見板が渋墨塗りです。箱根の関所は渋墨塗りで
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U 柿渋と渋墨塗り
(1)渋塗り
建築関係辞典の「渋塗り」に、「柿渋を塗った仕上げ。含有タンニン酸による防腐効果がある。主として木造外壁に塗る」また「生渋には水分80%、揮発酸タンニン5%が含まれ塗布されると揮発酸や水分が蒸発、揮発し、赤褐色の皮膜を生じ、水やアルコール不溶のものとなる」・・防水・防腐効果が記されている。
(2)渋墨塗り(墨渋塗り)
近世風俗史の基本文献といわれる「守貞曼稿」では、江戸の民家の下見板(壁の横板張りで、お互い少しずつ重なり合うように取り付けた板)などの板塀に渋墨を塗ることが日常的に行われていたことが記されています。
(3)熊本城の渋墨塗り
熊本城数奇屋丸改装工事に使用した塗料材料として、柿渋、膠液、油煙
と記載されている。・・・「重要文化財の修復には柿渋をよく使う。・・」
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(4)秋田県角館町の渋墨塗り黒塀
現在も残る代表的な事例。武家屋敷で有名な秋田県角館町の黒板塀がある。「黒塀板には柿渋に煤をまぜたものを塗っていたと口伝されている。
柿渋を塗ると腐りにくく、もちが良いとされる。黒板塀は武家屋敷や商家が (江戸の渋墨屋)中心であるが、民間でも板張り(杉材)の部分には渋墨が塗られていました。
25年ほど前、黒板塀の大改修の折、柿渋に煤を混ぜて塗ったが大変手間が要って困った。当時はまだ板塀に渋墨を塗る光景が見られたが、現在は化学塗料を用いている」と。
以上、今井敬潤氏の著作:ものと人間の文化史115「柿渋」より抜書き、転載しました
V 煤(松煙・油煙)と柿渋の混合について
「実用塗工術」の「漆塗り」の章では「渋墨溶解法」という技術があります。
その混ざりにくさと、煤(墨)の扱いにくさに一定の技術が必要であったこと
がわかります。そんなことも衰退の原因だったのでしょう。
「木の国渋墨」は、この問題をユニークな方法で解決しました。
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