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史 跡 の 紹 介
@ 貧女の一燈(ひんにょのいっとう) お照の墓(おてるのはか)
高野山奥の院に、千年もの間消えることもなく、光り輝いている「貧女の一燈」といわれるものがあります。
その燈を納めた娘「お照」の墓と伝えられる塚が天野にあります。
お照は、槇尾山(まきおさん)のふもと坪井村に捨てられた捨子でした。16歳の時に養父母と死別し、その菩提を弔うために、自分の髪を売って「貧女の一燈」を献じたもので、長和5年(1016年)の頃でした。
後日、天和2年(1682年)に妙春尼(みょうしゅんに)によりお照の実父母の供養塔(くようとう)が建てられ、貞享5年(1688年)には天野に住む僧浄意(じょうい)によって、女人の苦しみを救うための代受苦(だいじゅく)の行(ぎょう)を終えた旨の碑が建てられています。お照の墓のそばに供養を兼ねて建てられたものと考えられます。
この碑の上10mの所には、お照の実父母の墓と伝えられるものが残されています。
A 奥之沢明神(おくのさわみょうじん)
ここは、丹生明神(にうみょうじん)が初めて天野の地を踏んだ場所とされています。奥村垣内(かいと)の垣内神で、天野三沢明神(あまのみさわみょうじん)の一つ。
和銅三年(710年)の丹生告門(にうのりと)には、「丹生明神が、三谷の岩口の滝に神として現れ、大和から九度山と古沢(こさわ)を通り小都知(おづち)の峯(みね)を越えてここに降り、さらに、紀伊の北辺を巡り、鎮守の神としてこの地に祀られました」と記されています。
B 石造五輪卒塔婆群(いしづくりごりんそとばぐん)
大峰修験者(おおみねしゅげんじゃ)ゆかりの碑。100名余りの修験者と共に大峰に入るたびに1基ずつ建てられました。
鎌倉時代全国的に盛んとなった修験道(山伏)の中で、高野山の修験者によって、200人に及ぶ人々が参加し、大峰修行して建立されたものと言われています。
丹生都比売神社輪橋(りんきょう)(太鼓橋)のそばにあったものが、大正年間に、この地に移されたものです。
C 丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹神である丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)(丹生明神)を祀っています。その神領である高野山を空海(弘法大師)は借り受けて真言密教の総本山を開いたとされ、高野山とのかかわりは深いです。室町時代に建てられた本殿、楼門は国の重要文化財で、平成19年(2005年)に高野参詣町石道とともに世界遺産登録されました。
D 中之沢明神(なかのさわみょうじん)
天野では、丹生明神と高野明神(たかのみょうじん)が、奥之沢・中之沢・柳沢で祀られているので、 三沢明神(さんさわみょうじん)と言われています。
中之沢明神あたりは、鎌倉時代より人家が多く建ち、天野社の郷供僧(さとぐそう)や宮仕(みやじ)が住み、この明神社も維持されたことが中之沢文書に見られます。
ここは、高野明神(狩場明神(かりばみょうじん))が天野、志賀を巡り二ツ鳥居より天野へ下りた場所とされています。
E 西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうさいしほうきょういんとう)
西行の後を追い、尼になり天野で読経(どきょう)の生活を送った妻娘の供養塔です。県指定文化財のこの基は4基あり、右側の2基は応安5年(1372年)、左側の2基は文安6年(1449年)に比久尼覚念(びくにかくねん)・立澄(りっちょう)により建てられました。
F 有王丸の墓(ありおうまるのはか)
天野社より、八町坂(はっちょうざか)を行くこと300m、道のそばに数基の碑が並んでいます。桜の木の下に静かに眠るのは、有王丸と言われています。
鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘での平清盛打倒の謀議が破れて鬼界ヶ島(きがいがしま)に流された僧俊寛(しゅんかん)の遺骨を、弟子の有王丸(ありおうまる)が治承元年(1177年)、高野山に納めました。その後、法師となって主の菩提(ぼだい)を弔(とむら)いました。俊寛の娘も、12歳で天野の別所(べっしょ)で尼となったことが「源平盛衰記」に記されています。
「姫君出家の志ありと仰せければ、有王鬼角して高野のふもと、あまのの別所という山寺へ具し奉り出家し給ひにけり……云々」
G 院の墓(いんのはか)
里人は、鳥羽(とば)天皇の皇后である待賢門院(たいけんもんいん)の墓として伝えていますが、西行法師とのかかわりからみると、待賢門院に仕えた中納言(ちゅうなごん)の局(つぼね)の墓と考えられます。久安5年(1149年)ごろ、中納言の局が療養のため天野に移り住み、生涯を終えました。
H 西行堂(さいぎょうどう)
西行法師は、本の名を佐藤義清(さとうのりきよ)という武士でした。出家して後、妻も尼となり天野に住んだのが、康治元年(1142年)の頃です。
この地に庵を立て読経(どきょう)の生活を送ったが、娘も15歳頃に母の住む天野の里で尼となり、この地で母娘ともに生涯を終えました。
西行堂の下3m程の所に、里人が花を供え守り続けてきた妻娘(さいし)の塚があります。
ほととぎす 古きあはれの 塚二つ
青々(せいせい)
江戸時代の西行研究家「似雲(じうん)」が、天野を訪ねた時に庵を見て次の歌を詠みました。
なく虫の 草にやつれて いく秋か あまのに残る 露のやどりぞ
似雲(じうん)
現在の西行堂は、昭和61年11月に昔の姿を復元したものです。
I 横笛の恋塚(よこぶえのこいづか)
平重盛(たいらのしげもり)に仕える若侍斎藤時頼(さいとうときより)(滝口入道(たきぐちにゅうどう))と建礼門院(けんれいもんいん)の官女横笛(よこぶえ)との悲恋物語は有名です。
仏門に入り、高野山に登った滝口入道を慕い、高野山と関係の深い天野に住めば会えると考え、この地に庵を建てた横笛でしたが、その願いもむなしく、19歳の暮、病のためこの世を去ったのです。
里人により、庵のそばに葬られたという塚、それが横笛の恋塚です。
その後、様々な女性から供養されたのか、古びた五輪が積み重ねられ苔にむしています。
<滝口入道からの歌>
<横笛の返歌>
高野山(たかのやま) 名をだに知らで すぎぬべし
やよや君(きみ) 死すれば登る 高野山(たかのやま)
憂(う)きをよそなる 我身なりせば
恋も菩提(ぼだい)の 種(たね)とこそなれ
J 一の滝不動(いちのたきふどう)
空海(弘法大師)と狩場明神(かりばみょうじん)が初めて出会った所で、後に葛城修験(かつらぎしゅげん)の行場となりました。
「一の滝」は、天野の「下居(おおり)」という所にあります。そこには、今でも「一の滝不動」を祀っています。
K 柳沢明神(やなぎさわみょうじん)
昔、この地に大きな柳の木があって「柳沢」とよばれていました。狩場明神が「一の滝」で空海と出会い、この地に案内して丹生明神(丹生都比売大神)に会わせました。
このとき、弘法大師・空海は両明神様にお願いして高野山の土地を借りることになったのです。
こうして、柳沢明神は高野山から竪義(りゅうぎ)の神としてあがめられてきました。
L 神田地蔵堂(こうだじぞうどう)
町石道(ちょういしみち)の111町から112町の間に、神田(こうだ)の地蔵堂(じぞうどう)があります。高野参詣の休憩所として建てられました。弘法大師と子安地蔵尊、そして神田のお池「応其池」を作った応其上人(おうごしょうにん)が祭られています。
横笛が高野山で修業した滝口入道を待った所と伝えられています。
M 町石道(ちょういしみち)
一町(109m)ごとに町石と呼ばれる石の道標が立っています。慈尊院から高野山への参詣道で、平成19年(2005年)に丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)とともに世界遺産登録されました。
木の卒塔婆が石で完成されたのは、弘安8年(1285年)でした。
N 二ツ鳥居(ふたつとりい)
八町坂(はっちょうざか)を登りきると、町石道に出るが、そこに2基の鳥居が並んでいます。
弘仁10年(819年)5月3日、天野両明神(丹生明神(にうみょうじん)・高野明神(たかのみょうじん))を空海(弘法大師)が高野山に勧請した時、ケ材(とうざい)で建立したといいます。
現在の石造りになったのは慶安2年(1649年)5月、補陀洛院叟遍(ふだらいんそうへん)が建立したものです。
この鳥居のそばに120町石が立っているが、これより高野山までの町石道は祈りの聖道と言われ、まわりの立木の伐採も禁じられていました。昔から高野山への参詣者は、ここから丹生都比売神社に参拝しました。
O 小都知ノ峰(おづちのみね)
丹生明神(にうみょうじん)(丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ))が大和より古沢(こさわ)を通り、ここを超えて天野の里に入ったとされています。
峰には祠(ほこら)の石積みの跡が残っています。
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